最後の晩餐はカツ丼でいい

お米

人はなぜ、カツ丼を選ぶのか

「もし明日世界が終わるなら、何を食べたい?」 そう聞かれて、迷わず「カツ丼」と答える人がいる。 それは冗談ではなく、本音だ。 なぜならカツ丼には、単なる“食事”を超えた安心と快楽があるからだ。

サクサクの衣、甘じょっぱい出汁、卵のやさしいとろみ。 そのすべてが、疲れ切った心をやわらかく包み込む。 派手さはない。 でも、どこか懐かしく、心の奥を温める。 それがカツ丼という料理の本質だ。

カツ丼は「安心の象徴」

人は安心を求めて生きている。 ブランドでも高級食材でもない。 “知っている味”こそが、究極の贅沢だ。 カツ丼はその代表格。 初めて食べた日の記憶が、何年経っても変わらずそこにある。

一口目で、衣の香ばしさと出汁の甘みが混ざる。 それだけで「ああ、生きててよかった」と思える。 それは、記憶の中の“安心”を再生する味。 どんな時代でも、どんな場所でも、 カツ丼を食べれば少しだけ人はやさしくなれる。

欲望と幸福のあいだにある丼

カツ丼は、欲望を正面から肯定する料理だ。 油で揚げたカツ、白いご飯、濃い味のタレ。 すべてが“理性の外側”にある。 でも、その背徳感こそが幸福を呼ぶ。

人は完璧な食事を求めているわけではない。 体にいいものより、心に効くものを求めている。 その意味で、カツ丼は“人間らしさ”を象徴する料理なのだ。

カツ丼という“記憶の味”

日本人にとって、カツ丼は特別な料理だ。 家庭でも食堂でも、そして駅の立ち食いコーナーでも—— その味はどこにでもあるのに、不思議と“自分だけの一杯”がある。

子どもの頃、受験の前に食べたカツ丼。 給料日、少し贅沢した日のカツ丼。 失恋のあと、何も考えずにかき込んだカツ丼。 それぞれの人生に、ひとつの丼が寄り添っている。

カツ丼は、個人の記憶と密接に結びつく料理だ。 “勝つ”という縁起もあって、 努力や願い、失敗や再起など—— 人の生き様を象徴する器でもある。

“勝つ”ではなく、“満たす”

カツ丼の語源にある「勝つ」という言葉。 でも、実はカツ丼は戦いの料理ではない。 むしろ「負けてもいい」「頑張らなくてもいい」と そっと背中を押してくれる優しい丼だ。

忙しい日々の中で、 「今日はもう頑張らなくていい」と思える夜がある。 そんな日に食べるカツ丼は、 敗北を許す温かさを持っている。 食べることで、心が“再起動”する。

疲れたときのカツ丼は哲学だ

人は疲れているときほど、 理屈ではなく感覚で食べ物を選ぶ。 油の香り、卵のとろみ、甘辛いタレ。 その一口が、感情のノイズを消してくれる。

疲労した心に必要なのは、 正義ではなく、少しの“油分”と“ぬくもり”。 それが、カツ丼という料理の真髄だ。 つまりカツ丼とは、 「人を救うために存在する合理的な欲望」なのだ。

食欲至上主義的に言えば、 カツ丼は“生きる許可証”である。 誰もが迷い、誰もが立ち止まる。 そんな人生の隙間に、 この丼がそっと差し出されている。

最後の晩餐としてのカツ丼

「人生最後の食事に何を選ぶ?」 この問いには、人の価値観が詰まっている。 豪華な料理や珍しい味を挙げる人もいるが、 多くの人が選ぶのは“日常の味”だ。 それはつまり、「最期まで自分でありたい」という願いだ。

カツ丼は、日常の中で食べ続けてきた味。 人生の終わりにそれを選ぶということは、 自分の歩いてきた道を、丸ごと受け入れるということだ。 つまり、カツ丼とは「生の肯定」そのものなのだ。

欲望と救いのあいだにある幸福

カツ丼を食べるとき、人は少しだけ無防備になる。 熱い汁に顔を近づけ、箸で持ち上げ、 サクサクとした衣の音を聞く。 その瞬間、すべての思考が止まり、ただ“生きている”ことを感じる。

欲望を罪とする文化の中で、 食べることはいつもどこか後ろめたさを伴う。 けれど、カツ丼を前にした人の顔はいつも穏やかだ。 そこにあるのは、救いと安堵。 欲望を受け入れることで、人はようやく自分を赦す。

カツ丼がくれる“生きててよかった”の瞬間

食べるとは、生きること。 カツ丼をかき込むその行為に、 理屈はいらない。 熱くて、重くて、しょっぱくて、甘い。 その一杯の中に、人間の感情が全部詰まっている。

そして食べ終えたあとに残るのは、 満腹感でも満足感でもなく、 「生きててよかったな」という静かな感情だ。 それこそが、食欲至上主義の核心だ。

まとめ:幸福は一杯の丼に宿る

カツ丼は、派手ではない。 けれど、確かに人を救う。 それは、人生のどんな瞬間でも食べられる“幸福のかたち”だ。

もし最後の晩餐を選べるなら、 私はやっぱりカツ丼を選ぶだろう。 それは、何かを勝ち取るためではなく、 “ここまで生きた”自分を讃えるために。

湯気の向こうに立ち上る香り、 箸を入れた瞬間の衣の音。 そのすべてが、「おつかれさま」と語りかけてくれる。

食欲至上主義的に言えば、 最後の晩餐とは、最初の幸福の再現だ。 そして—— その丼の中には、人生のすべてが詰まっている。

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